大丈夫

大丈夫じゃない

冷めたカフェオレがあたたかった

2017年3月某日。わたしは2度目の荒浜に向かっていた。地下鉄荒浜駅から荒浜までバスで向かえるけど、わたしは歩いた。因みに早足のわたしで一時間かかる。歩くのが好きなので時間がかかる点、疲れる点、足が痛くなる点については全く問題ないけど、問題があるとすれば腰が悪いということ。こればかりは少しこころがダーク寄りのブルーになってしまう。腰だけ切り落としたくなる。なるだけだけど。

晴れていて、風がつよくつめたかった。太陽の光が眩しくて、しばらく目を細めながら歩く。暦の上では春だけど、まだ冬の余韻がつよく残っていた。それでも梅が咲いていたのと、光のやわらかさと匂いに春を感じずにはいられなかった。季節のはざまはいつもこころがざわついて落ち着かない。

何台ものトラックが砂ぼこりを巻き上げながら走っている。わたしはそのたびに思わず顔の前を手で払いながら目をつぶる。数えきれるほどの松の木が、遠くにぼんやりと見えてくる。そろそろ腰が痛くなってきた。がんばれ腰。

小学校だ。バリケードが張られ、中には入れない。でも春から中に入れるようになるそう。バスも、この小学校の前まで来るようになるそう。次に来る頃、また違った景色をみてわたしは何を感じ、何を思うのだろう。

観音様の前に立ち、手を合わせる。このときだけ、時間も風も止まり、世界にひとりわたしだけのような気がした。色も音も匂いも、わたしには感じなかった。こころの内からあふれる感情と思いで、からだの中が窮屈に感じる。あふれる感情と思いをからだの中にせき止めることが出来なくなったとき、多分涙となってあふれ出てくるんだろう。

堤防に上り、海を見渡す。風がつよいから、少し荒れてるのだろうか。それでも穏やかに見えた。刺すような風のつめたさに、思わず顔をしかめる。ざわついていたこころが、静かになるのを感じた。

砂浜を歩く。足跡が後ろに続くのが面白くて、何度も振り向きながら歩いてしまう。くねくね歩いたり、足跡で模様を作ったり。ほんの少し前のことでもそれは過去になり、今を何度も重ねていくことで、どんどん遠ざかっていく。この足跡もいずれ消えてしまうけど、消えないもの、消せないものがある。それはいつまでも、残る。

波打ち際まで近づく。ひとり波と追いかけっこをする遊びをして、適当な流木に腰を下ろす。自分のものではない足跡を見て、そのひとの人生を勝手に想像する。遠くに船が見えていたはずなのに、いつの間にかいなくなっていた。

少し散歩しよう、そう思ってまた歩き始めた。あるバス停の写真を撮っていたら、声がきこえた。

「こんにちはー!」

こんにちは、と返した。おばちゃんは、漁の仕事を終えたばかりらしい。何か飲むか、と訊かれ、お言葉に甘えてカフェオレをいただくことにした。あの日のこと、あの日の後のこと、そして今の話をした。控えめに怒りながら、神妙な顔をしながら、寂しそうな笑みを浮かべながら。表情と声色がとても豊かなその方のお話を、耳を澄ましわたしは聴いていた。

帰る頃には、カフェオレはもうすっかり冷めていた。それでもわたしは美味しいと感じた。もう既に日は傾いていて、風のつめたさがいっそう鋭くなっていた。バスで帰ろうと思っていたけど、ついさっき出たばかりで、最終バスは一時間後にならないと来ない。わたしはまた歩くことにした。それでもそのときは、腰は痛くならなかった。というより、痛みを感じなかった、が正しい。

歩きながら、夕飯のことを考えていた。何を食べたのかは、もう忘れた。

2017.3.12

さびしさの化身のはなし

ひとりでいてもひとといても、常にわたしのどちらかの足に腕を巻き付き離れない子供のように付きまとっている。それに気付いてはいたけど、それに思考や感情を奪われるとめんどくさいので気付いてない、わからないふりをしがちでいた。普段気にすることはほとんどないけど、たまにずしっと重さを感じることがあって、まあそれが大分しんどい。思考や感情がそれに囚われてしまってしんどいし、身体的にもしんどい。しんどさの種類も豊富にあって、それは動くには問題ないけど何となく慢性的な疲労で全身が占められてもどかしい感じ。だから足がすくむ。 そういうときはほとんど寝るけど、寝たくないときは食べるか絵を描くか本を読むか音楽を聴くか文章を書くかに限る。寝れないときはBUMP OF CHICKENのライブを思い出したりしている。笑い合ったあの日に守られてるなあとこのとき実感する。というよりわたしが無意識に色んなあの日の記憶をお守りにしてるんだなあ。頼りすぎてもいけないなあと少し反省する。とにもかくにも自分で自分をたすける術をちゃんとわかっているの偉い。

そんな違和やしんどさを知ってるのは、そうじゃないときを知ってるからであるなら、わたしはどんなときに、何をしているときしていないとき、誰といるときいないときに感じなくなるのだろう。ずっと考えていて思い出そうとしても無理で、だったらこれから足元が軽くなる瞬間のためにいきてみようかとも思い始めていたけど、最近その瞬間に出会えた。BUMP OF CHICKENのライブで、だ。

去年までは終わったあと、物凄くさびしくてさびしくて思い出してはたまらず枕に突っ伏してメソメソしていたりした。それが今年は三回ともなかった。いつもは違和がある足元がなんだか軽いぞと気がついたとき、めちゃくちゃに嬉しかった。足元からいなくなった対象に対してまた感じてしまって無限ループに陥るのではと思っていたけど、案外そうでもない。これ、わたしにとっては物凄い大きな変化なので嬉しい。環境だったりわたしの心持ちだったりそういう変化が大きいのだろうけど。彼らはとても寂しがっていたけど。そして何よりライブがめちゃくちゃにほんとうに良かったんだ~。思うことがありすぎるので、ツアーが終わったらまた文章を書こう。

わたしの中に空洞があって、きっとそやつはそれを酸素のようにして生きてるんだろう。それがなくなったときに、そやつは離れていく。その瞬間は、空洞がなくなって満たされたとも言えるのかもしれない。

満たされたときがあったなら、それはわたしにとっては死ぬときだといつだったか文章にした記憶があるけど、確かに「あ、もういいや」って声がわたしの中から聞こえてきたような、そういう瞬間だった気がする。そのとき確かにしあわせと言えた、心の底から笑っていた、わたしは。

満たされる=しあわせという方程式は必ずしも成り立たないし、今がしあわせじゃないわけではないし何なら食べてるとき寝るとき音楽を聴いているとき絵を描いているとき本を読んでいるときはしあわせなのでわたしの人生大抵しあわせだ。文章はちょっと違う。でも好きってほんとうに偉大。いきるに欠かせぬエネルギー。時たま厄介だけど。

ずっと足元が軽いままでいたいとは思わないし、むしろそうはなりたくない。それが悪いことだなんて、いない方が良いだなんてわたしは微塵も思わないし、正直するだけ無益な話だ。ただ今は願わくばまたその瞬間に出会えたらいいなと思う。

「思い出さない・思い込まない・空気を読まない」三大ないスキルを身に付けたい2018

2017.12.31

雲ひとつない快晴の空は

どこへでも行けるようなカラッとした気持ちよさと、どこへも逃げられないような泥濘じみた気持ち悪さが同居した途端、喧嘩し始めて終わりが見えず途方に暮れる感覚に陥るので時たま吐きそうになる。わたしのいる空間が、宇宙まで直に区切りもなくこれでもかと強烈に広がっていてつながりすぎる気がしてしまうのとわたしの意識が瞬時に宇宙まで飛んでいきそう。この気が時折気分を悪くさせる。夜の方が明らかに宇宙と強烈につながっていると思うし逃げ場ないと思うし宇宙にいるようなもんだけど大丈夫なんだなこれが。多分既に宇宙だと割りきっている。宇宙感の弱い星の見えない昼の方が得体の知れないものに近い感覚があるのかもしれない。いつか鏡張りの時期にウユニ塩湖を訪れて雲ひとつない快晴だった場合、瞬時に逃げ場のなさによる気持ち悪さ、具体的には不快感と戸惑いと恐怖が入り交じった感情が、骨の髄から皮膚まで全身が満たされるのが容易く想像できる。恐ろしさのあまり今にも震え上がるし吐きそう。雲が必要。雲は広すぎる空間に一旦区切りを与えてくれるのとわたしの意識が宇宙に行ってしまうのを止めてくれるのでどこへも逃げなくていい。安心する。雲は偉大。

2017.5.28

まさに世界の終わり、たかが世界の終わり

木々が淡いピンクを纏うようになったと思ったら、少しくすんだピンクと、対照的なみずみずしく鮮やかな青を纏うようになっていた。ああ杜の都仙台のうつくしく爽やかな季節が来るなあと少し恋しくなる。あの欅の葉の隙間からこぼれる暖かな日にあたりながら歩きたくなるな~もっと欲を言えば寝転がりてえな~でも毛虫とか鳥の糞とか落ちてきたらめっちゃ嫌だな~

たかが世界の終わり」を観た。フランス映画特有の、あの気だるさと映像のうつくしさが本当にたまらない。87%の確率で眠くなる。音楽も凄まじく良すぎたのでサントラ買おうかと思ったけどタワレコなくなってたんだわ東京のタワレコ分けてくれ頼む足りてるだろ
それらとはまるで対照的に、映画の中の家族が激しくぶつかり合う様が冬の海のようだった。激しいだけじゃなくて、時々静かだけど寒さはとても厳しい。でも、何故かその中で時々ひだまりができる瞬間が確かにあって、それが絶妙で痺れた。もしかしたら見逃してしまった瞬間もあったかもしれない。多分あのひだまりは、家族といった、遠くて近いような、近くて遠いような、わかり合えるようでわかり合えない、そんな微妙な距離感の間にしかできないものなんだと思った。かたちはいびつで、わかりにくいのかもしれないけど、多分愛とも言うんだろう。

主人公の台詞が少ない。そのぶん表情、特に目の表情からひしひし、じわじわ一滴ずつ滴り落ちてくるものがあった。そしてその一滴全て浸透率が高くて、終わる頃にはわたしは化粧水が染みたコットンみたいにひたひたになっていた。だから登場人物全てから滴り落ちてくるものを、わたしは受け取りきれなかった。

大体映画を観終わるとこんな感じになる。でも、これまでひたひたになったらほとんどはわたしの中に染み込まず、蒸発する。染み込むのはほんの一握りで、もったいないなあと思ってしまう。だから受け取ったぶんだけでも、どうにか一滴もこぼれ落ちてしまわぬようにわたしの中に染み込ませねばと、こうして文章にしている。でも中々ことばに直すのは難しい。

わたしの中に染み込んだ一握りの映画を大切にできるなら、そういうものと出会えたのならこのままでもいい、とも思うけど、映画を通してしか出会えないものがたくさんあることを知ってる。本や音楽なども然り。

そういう出会いを逃してしまいたくないから、それよりも忘れたくないからがきっと正しい。呼吸や瞬きしていることすら忘れてしまうのに、忘れないなんてきっと無理だ。思い出せたらいいと考えるようになったけど、それでもやっぱり諦めたくない。せめて忘れないようにじゃなくて、忘れても構わないように、思い出せるように材料は残しておきたい。メモをとるってそういうことよね。メモしたことも忘れるんだろうけど

忘れたくないと思えること、ものに出会えた喜びを、深く深く噛み締めることができるようになった。それでも「忘れたくない」という気持ちは本当に正直なもので、無視できない。それも大切にしたいなあ。いきている限り、そのときそのときうまれる裸のままの感情や思いを、わたしも素直に迎え入れたいな。イエーイウェルカム。

2017.5.1

「元気で、いや元気じゃなくてもいいから、またね」

という昨年のナゴヤドームでのライブで、去り際に放たれた藤原基央のことばを思い出しては今日も元気でいられるな。去り際に放たれてこんなにも元気になったことば、これ以上のものをわたしはまだ知らない。

機種変更した。メールや画像、電話帳は残っているけど、ラインのトークやメモは全部消えた。儚さなんて微塵も感じさせない、この世に何の未練もないかのようにあまりにも綺麗に消えていった。少し寂しかった。中には残しておきたいと思っていたものもあったから、思い出せる範囲でまた記録しようかと思ったけど、ほとんどは思うだけに留まった。結局その程度だったのかもしれない。或いはわたしの血となり肉となったと思おうか。骨にもきっとなったね。忘れたって消えやしないもんね。BUMP OF CHICKENのrayのようにいきようね。

忘れないなんて無理だなあと諦めるようになった。代わりに、思い出せたらいい、忘れてしまったのなら、それらは全部消えたんじゃなくてわたしの血となり肉となったのだ、と考えるようになった。わたしがこころの底から楽しくて笑っているとき、誰かはこころの底からかなしくて泣いていることをふと思い出してはそのたびに、心臓にサボテンの針が刺さったかのように、微かだけど確かに痛む。そして刺さった針はもう二度と抜けることはない。今の心臓はとげだらけだけど、サボテンのような様だからまだまだ刺さる。ひとから見たら黒ひげ危機一髪状態で、全然刺さっていないかつ、刺さるところがもうないように見えるかもしれない。もしかしたらわたしの思い込みで、本当にそうかもしれない。所々サボテンの針じゃなくて、裁縫用の針とか栓抜きとかノコギリとかも刺さってる。きっとこれからも増える。多分死ぬ頃には心臓は、ウニを越えていびつな形をするマリモになっている。サボテンのまま、あるいは黒ひげ状態でしぬかもだけど。

だからどれが、どんなときに刺さった針なのか、どんな痛みを感じたのか、感じなかったのか、色んなことが思い出せなくて、わからなくなる。思い出せるものと、そうでないものがある。忘れることのできない、と思っていたけど、実際は忘れている。時々何かを引き金にして、或いは何の引き金も前触れもなく突然思い出すのだ。ずっと頭の中心にあるわけじゃなく、それぞれがあらゆる片隅に留まっている。それが中心に移動してきて思考の大部分を占めることもあって、とても厄介なときがある。まあわたしが片隅に引っ張られて思考の大部分を占めることももちろんあるけど。というかもしかしたらそれがほとんどなのかもしれない。中心にいるのに片隅に引っ張られるあまりに、わたしに気がつかれないものもあるんだろうな。ごめんな。

それでもいつかは引っ張られなくなり、或いは忘れることができるくらいいつの間にか片隅に目立たないように留まるようになる。思い出せるものは片隅に留まり続けるけど、中には片隅からもいなくなっているものもある。わたしに気づかれないよう、跡形もなく、たったひとりで。

わたしは時々それに気がついては、こころに新たな隙間がうまれる。気がつかないままいなくなっていることそのものに、気がつかないこともある。その正体はわからないけど、いなくなっていることに、多分さびしいと感じている。それがどんな正体だったとしても。

思い出せなくなったとしても、刺さった針はもう二度と抜けない。痛みを感じなくなったとしても、確かに痛んだ事実は消えない。全部全部わたしには必要なもので、わたしを支えてくれたもので、わたしという個体を構成してくれたものにかわりはなく、いとおしさすら感じる。

いきるって針の刺し合いだな。できることならひとに針なんて刺したくないけどな。でも気づかず今日までたくさん色んなひとに針を刺してきてしまったんだろうな。もう過ぎてしまったことで気にしてもしかたがない、これから気を付けたらいいと思いはするけれど、やはり時折思い出す。たくさん針が刺されば刺さるほど丸に近くなるけど、鋭さは増す。年をとるってそういうことなのかもな。丸くなるようで、鋭くなる。というかマリモって丸いけど別に鋭くないよな。何かないかな。というかマリモってただの丸なのに可愛く感じるの何でだろうな。可愛くない丸もあるのにな。マリモになりてえな。丸って集合すると凄まじい恐怖感と威圧感をこれでもかと醸し出してくるの、不思議じゃない?多分宇宙5678大不思議のひとつだよ。待ってそもそもこころが丸って誰が決めた?わたしか

サボテンの針は、砂漠でいきるサボテンにとって必要不可欠なものだ。きっと似たようなものなんだと思う。わたしの針も、いきるためにきっと必要不可欠なものなんだと。針が刺さらなければ痛みは知らずに済んだかもしれないし、知らなくていいものもあったかもしれない。というかある。それでも針が刺さらなければ出会えなかった痛みと、それを通してしかうまれない感情と出会えたことに、わたしは確かな幸せを噛み締める。楽しいときは楽しいままに、かなしいときはかなしいままに、そのときうまれた素直な感情を素直なまま、全部大切に受け止められたらいいな。まあ全部はまだ無理かもわからんな。でも肯定はできる。


4月は、シンクロニシティとアフターアワーズというイベント、サカナクションのライブに行った。特にシンクロニシティとアフターアワーズは本当に本当に本当に最高で、二日間で約20組観た。昼から酒を片手に好きなアーティストばかり観れる最高極まりないイベント。ただ被りすぎていたために小まめに時間をチェックしながら移動していた。あまり座れず夜には腰が泣いていた。膝ではない、腰だ。笑うんじゃない、確かに泣いていた。そして泣く泣く諦めたアーティストもたくさんいて、あの二日間ばかりはわたしをあともう四人欲しいと3547966315331回こころの中で叫んでいた。最後に観たBoris、ライブ終わりに自分がいぶりがっこになっている未来が容易く想像できるくらいスモークが凄まじい量で、わたしの中に残る印象として鮮烈すぎた。凄い。ノベンバは観るたび「はあ好き…」と1億回ため息が出るし、一番楽しみにしていたROTH BART BARONは目の前を滲ませながら野外で聴きてえと1億回叫びかけたし、downyは後ろの映像になりてえが思考の大部分を占めていた。頭がほどよく回らない状態で音楽を浴びるの、至高。

サカナクションも最高だった。3回目だったけど、一番近かった。相変わらず本当に楽しい。我を忘れて踊ってしまうライブナンバーワン。「夜」と言えばこのひとたちだなあ、好きだ。グッズも買うつもりなかったのに、600円ぐらいで買えるはずの写るんですを2500円払って買ってしまった。一瞬躊躇いながらもまあ可愛かったので仕方ないゆるす。撮るの楽しみだなあ。今のフィルムを撮り終わるのにまだ時間がかかりそうだ。次はノベンバとシガーロス

木々が、淡いピンクを纏うようになっていた。立ち止まり、見上げるひとがたくさんいて、そうそうこの景色がいいんだと毎年ひしひしと感じる。桜そのものより、ひとが桜を見て写真を撮っていたり、桜の木の下のベンチで談笑していたりする様子を見るのが堪らなく好きだ。それを見るたび胸に込み上げてくる形容しがたく、指の間をするりと抜けてしまうようなつかみたくてもつかめない感情に、相変わらずもどかしくなって戸惑う。でも感覚としてはひだまりのようで、とても心地が良い。東田直樹さんの、桜の話を思い出す。多分わたしもきっとずっと、桜が好きなんだろうな。

2017.4.22

プラスチックでできたおもちゃの指輪

のような四年間だった。とても軽くて中も空洞で何の価値もないような、そんな大学生活だった。ひとから見たらそうかもしれないけど、ガラクタのようなこの指輪の価値は、わたしにしかわからない。中は空洞で何も詰まっていないようで、記憶の引き出しを開ける匂いがたくさんぎっしり溢れんばかりに詰まっている。ボロボロになって指輪としての役割を果たせなくなったって、わたしは死ぬまでこの指輪と一緒に生きていく。時々匂いを嗅いでは思い出して勝手に悲しくなって悔しくなってまたまた勝手に心を痛めたり、それ以上に面白さと楽しさのあまり笑ってしまって心にひだまりを作ってくれたり、寄り添い一緒に歩いてくれたり、背中をさすって励ましてくれたり、柔らかな温もりを纏って抱き締めてくれたりしながら。

2017.4.23