大丈夫

大丈夫じゃない

さびしさの化身のはなし

ひとりでいてもひとといても、常にわたしのどちらかの足に腕を巻き付き離れない子供のように付きまとっている。それに気付いてはいたけど、それに思考や感情を奪われるとめんどくさいので気付いてない、わからないふりをしがちでいた。普段気にすることはほとんどないけど、たまにずしっと重さを感じることがあって、まあそれが大分しんどい。思考や感情がそれに囚われてしまってしんどいし、身体的にもしんどい。しんどさの種類も豊富にあって、それは動くには問題ないけど何となく慢性的な疲労で全身が占められてもどかしい感じ。だから足がすくむ。 そういうときはほとんど寝るけど、寝たくないときは食べるか絵を描くか本を読むか音楽を聴くか文章を書くかに限る。寝れないときはBUMP OF CHICKENのライブを思い出したりしている。笑い合ったあの日に守られてるなあとこのとき実感する。というよりわたしが無意識に色んなあの日の記憶をお守りにしてるんだなあ。頼りすぎてもいけないなあと少し反省する。とにもかくにも自分で自分をたすける術をちゃんとわかっているの偉い。

そんな違和やしんどさを知ってるのは、そうじゃないときを知ってるからであるなら、わたしはどんなときに、何をしているときしていないとき、誰といるときいないときに感じなくなるのだろう。ずっと考えていて思い出そうとしても無理で、だったらこれから足元が軽くなる瞬間のためにいきてみようかとも思い始めていたけど、最近その瞬間に出会えた。BUMP OF CHICKENのライブで、だ。

去年までは終わったあと、物凄くさびしくてさびしくて思い出してはたまらず枕に突っ伏してメソメソしていたりした。それが今年は三回ともなかった。いつもは違和がある足元がなんだか軽いぞと気がついたとき、めちゃくちゃに嬉しかった。足元からいなくなった対象に対してまた感じてしまって無限ループに陥るのではと思っていたけど、案外そうでもない。これ、わたしにとっては物凄い大きな変化なので嬉しい。環境だったりわたしの心持ちだったりそういう変化が大きいのだろうけど。彼らはとても寂しがっていたけど。そして何よりライブがめちゃくちゃにほんとうに良かったんだ~。思うことがありすぎるので、ツアーが終わったらまた文章を書こう。

わたしの中に空洞があって、きっとそやつはそれを酸素のようにして生きてるんだろう。それがなくなったときに、そやつは離れていく。その瞬間は、空洞がなくなって満たされたとも言えるのかもしれない。

満たされたときがあったなら、それはわたしにとっては死ぬときだといつだったか文章にした記憶があるけど、確かに「あ、もういいや」って声がわたしの中から聞こえてきたような、そういう瞬間だった気がする。そのとき確かにしあわせと言えた、心の底から笑っていた、わたしは。

満たされる=しあわせという方程式は必ずしも成り立たないし、今がしあわせじゃないわけではないし何なら食べてるとき寝るとき音楽を聴いているとき絵を描いているとき本を読んでいるときはしあわせなのでわたしの人生大抵しあわせだ。文章はちょっと違う。でも好きってほんとうに偉大。いきるに欠かせぬエネルギー。時たま厄介だけど。

ずっと足元が軽いままでいたいとは思わないし、むしろそうはなりたくない。それが悪いことだなんて、いない方が良いだなんてわたしは微塵も思わないし、正直するだけ無益な話だ。ただ今は願わくばまたその瞬間に出会えたらいいなと思う。

「思い出さない・思い込まない・空気を読まない」三大ないスキルを身に付けたい2018

2017.12.31